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【PJ 2007年10月31日】- 自由民権運動の激化して起こった一連の事件のひとつとされ、その代表例ともされる事件が「秩父事件」である。9月23日の茨城県加波山事件に続く民衆の蜂起である。

 1884(明治17)年2月の大井憲太郎の遊説を契機として、秩父の自由党員は急速に増していた。秩父地方は山間地であり、養蚕、製糸、絹織物などの農家の副業が発達していたが、明治政府の官営工場育成などの方針により、その動きに対応できない小生産者の大量没落という現象が発生していた。高利貸への負債に対して、貧農を中心に「困民党」「負債党」などと呼ばれる組織が結成され、利率の引き下げや借金の据え置きの運動を起こしていた。秩父の自由党の拡大は、この「困民党」の組織に結びついて行われた。9月には、借金の10年据え置き、40年賦、学校費削減のため3年間休校、村費・雑収税の軽減などの要求項目を決め、請願運動を行っていた。



 1884(明治17)年10月31日(加波
山事件の処理などをめぐり自由党は、10月29日に解散していた。その2日後である)、埼玉県秩父地方の農民数千人が集合、自由党員井上伝蔵らの指導下に組織を整えた。11月1日、総理に田代栄助、会計長に井上伝蔵、参謀長に菊池貫平を選出、秩父郡椋神社で武装蜂起して、郡役所・高利貸などを襲撃した。

 11月2日には秩父郡の大宮郷(現在の秩父市)を占拠、東京進攻を決定したが、11月4日、東京鎮台より1大隊、11月5日さらに1大隊の増派により反撃、鎮圧された。徹底抗戦派は、菊池を総理に信州へ転戦して、11月9日、八ヶ岳山麓で壊滅した。後の裁判で、死刑10名を含む4000名以上が有罪判決を受けた。彼らが使用した「自由自治」という年号は私年号である。

 昭和の初年に編集された「資料近代日本史」では、加波山事件に対しては多くの記事を掲載するが、秩父事件については次の記事のみである...ニュースの続きを読む
(引用
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