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【PJ 2007年08月16日】- 日本の歴史の中で、天皇家が二つに分かれ対立した時代があったことを、歴史の教科書ではあまり詳しく教えようとはしていない。鎌倉幕府の滅亡から、室町幕府の初めの時代である。

 扶桑社の「新しい歴史教科書」では、南北朝の争乱という節に『1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは幕府を京都に開くなど、武家政治再興の方針を明らかにしたものだった。いっぽう、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士に呼びかけて、約60年間も全国にわたる争いを続けた。この時代を南北朝時代という』と記している。

 南北朝は、1392(元中9・北朝元号では明徳3)年、第3代将軍足利義満の主導と大内義弘の仲介によって、北朝の後小松天皇へ南朝の後亀山天皇からの三種の神器の譲渡による合体で終わるのである。

つま
り、現在の天皇家は、北朝の流れになるのだ。

 1911(明治44)年、国定教科書が両朝を同列に記述していることを巡っての問題が起こった。明治の教科書問題で、通称「南北朝正閏論」と呼ばれる問題である。結果、明治天皇の裁断で南朝正統と決定され、北朝の光厳・光明・崇光・後光厳・後円融帝及び南朝の長慶帝を歴代表から削除、更に南朝・北朝の呼称も廃止となった。南朝は吉野朝と呼ぶこととなった。これにより、明治天皇は、第121代の天皇となったのである。

 平成の今上陛下は第125代である。1代間違っているのではの疑問が生じるが、これは、1926(大正15)年10月21日に、長慶天皇の第98代の在位が認められ、それ以降の代数が1代加わったためである。昭和天皇はこのことにより、第123代ではなく最初から第124代として即位した...ニュースの続きを読む
(引用 livedoorニュース)


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