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 1449年8月31日、明の英宗がモンゴルの一派、オイラト軍の捕虜となる事件が起きた。この事件は「土木の変」と呼ばれる。

 1368年に長江下流を地盤に朱元璋が明を興し、北に兵を進めると、元朝は首都北京を放棄して、モンゴル高原に撤退。明と元は長期にわたり対峙することになった。明は中国の支配者として正統性を主張する必要があり、前王朝の存続を認めるわけにいかなかった。

 北方に退いた元(北元)はかなりの勢力を保ったが、一部では支配を離れる部族も出現。明朝は「モンゴルは分裂した。したがって『元朝』も存在しない」と主張するため、モンゴル(蒙古)という呼称を使わず、モンゴル系の諸部族をそれぞれ別民族として扱うようになった。

 15世紀になるとチンギス・ハーンの男系子孫をハーン(皇帝)とする北元が衰え、モンゴル高原の覇権は西部の有力部族だったオイラト(オイロト)を率いるエセンが手にした。

エセンは西は現在のカザフスタン、東はモンゴル高原東端のヒャンガン(興安)までを支配下に置き、現在
の中国東北地方や沿海州も勢力下とした。

 オイラトが勃興した大きな理由は東西交易で利益を上げたからだった。支配領域が広まったこともあり、エセンは明朝に朝貢貿易の規模拡大を要求した。

 朝貢貿易とは、中国の周辺民族が使節を送り、皇帝に貢物を差し出し、中国側が見返として恩賜の品を与えるという貿易の方式。皇帝の威信を示す必要があり、受け取る貢物より価値が高い品を与えるのが普通だった。

 オイラトとの朝貢貿易も、明朝側には大きな負担だった。明朝が朝貢貿易を行っていた理由には、周辺民族に利益を与え平和を保った方が得策だという政治上の判断があった。

 しかし、明朝はエスカレートするオイラト側の要求を拒絶...ニュースの続きを読む
(引用 yahooニュース)


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